卑屈と姦邪の岸辺と食事の関係について

 つい先日のことなのだが、ある友人とAV談義をしていて(談義、というほど込み入った話でもなかったのだが)、一旦モバイル端末にコレクションしたAVたち(友人たち、みたいな言い方だ)を消去するのは非常に勇気がいる、というその友人の言葉にひどく驚いた。
 AVという、卑屈と姦邪の岸辺(ハーマン・メルヴィル『白鯨』より引用)を象徴する対象に対して、勇気、という言葉を使う大胆さにも驚かされたが、何より、僕が感じたのは、50Gも使ってAVを保存しているにもかかわらず、その大半を消去するのに勇気が必要ということであった。
 大体、AVなんていうものは、人によって好みがはっきりしているものなので、「お気に入り」が決まってくるものなのだと僕は考えていた。実際に好きなものばかり毎日食べるのには、かなりのお金がかかるが、AVの場合、どれも値段は一緒なので、好きなものを毎日見ても何の問題もない。
 だから、そんなに、大量のAVを保存しておく意味がわからないと僕は考えたわけだ。
 そこで、僕が、「お気に入りなんて限らてくるやろ?」と聞くと、友人の答えはこうだった。「まあ、それはそうなんだけど、気分によっても変わる。食事と一緒」と答えた。
 食事と一緒という比喩にも驚かされたが、その食事観の違いにも驚かされた。僕は多少偏食気味で、気に入った同じものを何日も続けて食べるという、はなはだ引きこもりらしい癖を持っているのだが、その友人はどうやらそうではないらしい。
 ここで、友人にこの「食事観」について尋ねて、議論をより発展させればよかったのだが、僕の頭はそういう方向には働かず、話はうやむやのまま終わってしまった。一口にAV談義といっても、底知れぬ深みがあるようだ。今回はその深淵の一端について軽く触れてみた。淑女の方々には失礼がなかったか心配だが、紳士の方々はそれぞれに思うところあったはずである。またの報告をお待ちする次第である。