ポール・オースター『ガラスの街』/ポール・オースターの作り出した迷宮

 ポール・オースター『ガラスの街』は随分前に一度読んだ。その時は理解がおぼつかず、どの本を読めばいいのか、それがわかっていなかった時期であったこともあり、「こんな本もあるんだな~。オモシロ」と思って、放り出していた。

 それが、最近になって、読み返していくと、「すごく面白い本じゃん。なんで、この本の価値がわからなかったんだ!!」と驚愕するに至ったのである。その間優に、数年間の時と、読書経験を経て、ポール・オースターのファンになりつつある。二十代の頃、それなりに本を読みこんだ成果がここにポールオースターとの出会いとして結実したと言えないこともない。

 ポール・オースター『ガラスの街』は、一言で言えば、「迷子になる」小説、と言えなくもない。詳しい論点は先に譲るが、とりあえず、この小説で印象に残るのは、冒頭の、散歩に関する記述である。「ニューヨークは尽きることのない空間、無限の歩みから成る一個の迷路だった。」ここにオースター独自の物語論が展開される。物語とは、自分の中で迷子になること、オースターはそう言っているように僕には思えてならない。

 『ガラスの街』主人公のダニエル・クインは、自身の著する探偵小説中の主人公、マックス・ワークの「架空の身体を介した、一段へだたった生」を生きている。そのダニエル・クインに、まさに、私立探偵、「ポール・オースター」(これはもちろん作者自身の名でもある)への電話がかかってくる。冒頭に示されるように、これは、「まちがい電話」である。しかし、自身も探偵小説を著し、その登場人物の身体を介してしか生を実感できない、ダニエル・クインは、この「誘い」にまんまと乗っかってしまうのだ。

 「ポール・オースター」の名を騙り、私立探偵としての活動を開始したクインは、徐々に冒頭の記述にあったように、迷子になったような感覚にからめとられていく……。

 クインの道のりがどのようなものになるのか、迷子になった果てにクインが辿りつく場所とは? 非常に魅力的な小説である。ただし、最後の項に辿り着いたとしても、そこが果たしてどのような場所なのか、読者には言い当てられないかもしれない。果たしてクインは、「迷宮」から出られるのだろうか? この物語の本当の語り手とは? 答えは物語を読んだ読者の中にある。「問題は物語それ自体であり、物語に何か意味があるかどうかは、物語の語るべきところではない」。我々がオースターの物語を読むとき、本当にオースターが書いた物語を読んでいるのだろか? 迷宮への旅を今始めよう。