療養生活の楽しさ

 ついでなんでもうちょっと書いてみようか。さっきの記事でも書いた通り、療養生活の楽しさは、体との対話、がひっきりなしに続くことだと思う。

 楽しさって言うと、ちょっとお気楽で、そんな楽なもんじゃないんだけど、それは当たり前として、それでも、この体との対話、を楽しむことのできる人もいると思う。

 僕は昔から、この体との対話、がわりに好きで、よくランニングしたり、一人でできるスポーツをしたものだった。

 こういう傾向は、スポーツだけじゃなく、その他の趣味にも及んでいたらしく、僕の好きなことって言うと、ほとんどが、黙々と自分一人でできること、例えば読書とか、音楽鑑賞とか、そういったものばかりだ。

 チームワークの要求されるサッカーとかそういうスポーツはいまいちのめり込むことができない。もともと協調性のあまりない性格だったんだな。

 幼児期の環境も影響してか、とにかくそういう性格は現在に至るまで、脈々と僕の中に一本の線として続いているみたいだ。

 こういう傾向が、青年期に、読書というものと結びついて、より強化されていくわけだけど、とにかく、こうした傾向によって、僕の療養生活は格段に、耐え忍びやすいものになったみたいだ。

 僕はもともと辛抱強いというか、地味な繰り返しに耐えることが非常に好きな性格なのだ。日々、同じことを繰り返しながら、それが身体にどんな影響を与えるのか、それによって、自分の身体が回復へと向かっているのか、そのことに耳を澄ますという作業。

 こういう作業には、向いている人もいるし、それほど向かない人もいる。でも、たとえ向いていない人でも、長く病気をしていると、こういう作業に面白さを見出すようになるかもしれない。病気をすることによって、生き方が変わってくる、なんてこともあるのかも。

 余談だが、僕はこうして精神的な病を得るまでは、結構順風満帆な人生だったのだ。大学時代は、可愛い彼女もいたし、それで結構楽しい思いもした。

 けど、結局全てはこの病のせいでおじゃんになってしまった……、かのように見えたんだけど、今こうして少しはまともに、文章を書いたりできるようになって、振り返ってみると、どうもそうとばかりは言えないみたいだ。

 この病気を乗り越えることで、僕は別の人生の扉を開いたような気がする。まあ、どうなるかわかんないけど、とりあえず、今は新しい人生の始まりをなんとなく感じておこう。いや、ほんとどうなるかわかんないよ。一番怖いのは、また、全ては振り出しに戻ってしまうことだ。あ~、どうなることやら。