先日のおれのラインのタイムラインの投稿からの転載

ちょっと考えたことを書いてみようか。一昨日のことなのだが、ある友人グループと、こんな話をしていた。「おれ、転校する前の学校で、マラソン大会の練習で上位になって、めちゃくちゃ喜んで、本番悲惨な結果だったんだよな……あれって、みんな練習は手を抜いてたってことなんだろうか……。」
この話をおれがすることになった発端は、人生において、人を追い越したり、追い越されたり、そういう作業を繰り返す人生レースの模様、について、それぞれが、話を披露していたから、何らかの関係があるのではないか?と俺が勝手に判断して、話し始めたのだった。
ところがである。僕がこの話を披露し始めた途端、友人たちは、この話を持ち出したおれの意図がわからなかったらしく、「お前って、脚速かったよな」とか、あらぬ方向に話が進んでいってしまったのである。これでは、おれの「脚速自慢」で話は終わってしまうではないか。
おれもはっきりと、自分がこの「マラソン本番悲惨話」を持ち出した意図について、わかっていたわけではなかったので、そのことを指摘することはできず、話はうやむやのまま、終わってしまったのである。
しかし、返す返すも残念だ。それまで話していた、人生追い越し追い越されレースの話に、「何らかの彩り」を添えることができたなら、話はもっと豊かなものになっただろう。話の方向性を見定めるテクニックを身に着けたいものである。おれもまだまだだな。