ミスチル選民思想

 よくよく考えてみたら、僕のまわりにはミスチルファンが多い。
 就労支援事業所に通っているのだが、そこで仲良くなった40がらみのおっさんもミスチルファンだったし、幼年期に知り合った旧知の友人もやはり兄貴の影響を受けて、ミスチルの大ファンだった。
 僕の回りのミスチルファンはやはりミスチルファンというものが古来からみなそうであるように、非常に自信満々にファンであることを公言する方が多いようだ。
 もちろんこれは全然間違ったことじゃなくて、あるミュージシャンのファンである以上、自分がファンであることを言った方が、ミュージシャンにとっても、ファン本人にとっても好もしいことは言うまでもない。
 例えば、ファン同士がお互いのミュージシャンの好きさ度合いを比べ合うことができる、などの点がそうであるのだが、これには一つの問題点が含まれている。それは、「ミスチルファンは誰しも『自分が一番ミスチルのファンなのだ』と思いたい」という根深い選民思想を抱えて生きていることだ。
 したがって、その会話は非常に醜い争いになることが多い。
 それゆえ、僕自身は、ファン同士のこういった会話は避けて生きてきたのだが、つい先日、ふと自分が少年期にミスチルを聴きこんだことをミスチルファン歴30年の猛者にもらしてしまい、案の定こうした醜い争いが始まった。
「僕が初めて借りたCDは『ATOMIC HEART』でしたね。90年代最高の名盤ですよ」とか、「○○さんは『It’s a beautiful life』 より『Q』の方が好きでしょう。顔つきからわかります」などだ。
 「あ、おれはまだまだだな……」、とか「お! おれは結構ファン歴深いな! まだまだいける!!」などの心の声が、ばしばし聞こえてくる。嫌な時間である。
 ミスチルファンはいつもこのファンとして語りたい、という願望と、醜い争いは避けたい、という気持ちの狭間で、熾烈な葛藤を抱えて生きている。明日はどんな会話が僕を待ち構えているのだろうか。