イライラについての考察

 僕はイライラすることというのがあまりないらしい。最近僕はイライラするシチュエーションというものについてよく考えている。

 あんまりどこかに急いで向かう、ということをしていないせいか、イライラしそうになっても、「別に急いでないよな」と気づくと、イライラは収まってしまう。それほど時間にゆとりのある生活をしている証拠だろう。

 このゆとりのある生活というのが、僕にとっては本当にありがたい。というのも、僕は急いで何かを行う、というのが根っから性に合わないからなのだ。

 子供の頃の宿題でも、宿題をするのが嫌、というより、残しておくと、後々急いでやらないといけなくなるから、前倒しでどんどん仕上げていたような節がある。時間に追われて自分のペースを見失うこと、これこそイライラさせられることである。

 と、こうして考えてみると、イライラするシチューションというのは、そのシチュエーションになる以前に、既に自分が急ぎすぎている可能性も考えてみる必要があるのではなかろうか?

 例えば、レジの列が長くてイライラする。しかし、そのイライラはよ~く、考えてみると、「普段から自分が必要以上に急がされている(自分のペースを乱されている)イライラ」+「普段から急がされているそのペースがさらに乱されるイライラ」のように構成されているような気がする。

 ここで本質的なのは、おそらく、前者だ。列が長いことによって、普段必要以上に急いでしまっている自分というものの姿が浮き彫りになる。そのことで人は必要以上のイライラを感じるのではなかろうか? 以上が僕のイライラに対する考察である。

とあるセンターにおける僕の日常

 僕は今日の朝、最寄りのバス停でバスに乗った。

 バスの乗り心地はさほど良くない。運転手さんは不機嫌そうで、乗客たちはむっつりと席に座っているのだった。

 僕がセンターに着くと、いつものように席に着き、コンピューターの電源を入れた。コンピューターには描きかけの絵が入っている。今日もこの絵を仕上げなくてはならない。

 昨日僕はほっともっとのお弁当を食べた。そのせいで今日はエネルギーが充実している。このところほっともっとは僕にいいパスを投げてきてくれていた。

 僕のセンターの主任さんはなかなか気合の入った男だ。大抵朝のこの時間にはセンターに出ておられて、そしてセンターの顔とも言うべき役割を果たす。それは……朝の挨拶である……。

 センターの利用者は言うまでもなく、社会復帰に何らかの困難を感じておられる方々である。従って、一日の気合いが足らない。僕のようにほっともっとからいいパスを投げてもらっている人間ばかりではない。それぞれの事情により、何らかのエネルギー不足を問題として抱えている方々も多いのだ。

 そんな時、主任の気合の入った挨拶がセンター利用者にエネルギーを注入する。それによりセンターの一日が始まるのだ。

 

 センターにはこのようにエネルギーの足らない利用者にエネルギーを注入してくれる職員さんが多い。従って、職員さんは時にエネルギー不足に陥る。とある女性職員さんの場合がそうだった。しかし、ここで深入りするのはやめにしよう。

 

 さて、一日の始まりは大体こんな風である。わかっていただけただろうか?

 社会復帰に必要なのは職員さんからのエネルギー注入だけではない。センター利用者が朝の段階でどれだけやる気があるのか、その日の作業予定を報告する作業も必要である。これがいわゆる「朝礼」と言われているものである。

 朝礼においては、一日のこなすべきタスクの量を、ドン!と宣言し、高らかにやる気を示すべきなのだが、やはり我々の覇気は社会人になるにはまだまだ足りない。どことなく覇気のない宣言が続く。やってのけるぜ!、という気迫がまだまだ足りないのだ……。

川の流れと戻ってきて欲しくないものについて

 川というのは人の心をなんとなくゆったりさせてくれるようだ。あんなにせわしなく流れていく水の流れが人の心を落ち着けてくれるというのは何とも不思議な現象である。

 川の流れに限らず、何かが流れていく様子というのはものによらず、人の心を落ち着ける作用があるようである。球がひたすら流れてくるパチンコ台や、人の流れを観察するシミュレーションゲームなどもその一端と言えそうである。

 反対に見ていてイライラするものというのもある。試験中に眺める時計の針なんかが僕の場合にはそうである。

 なぜ時計の針にイライラさせられるのだろうか?

 まず第一に、川の流れとの対照的な違いがある。それは時計の針が、循環的な動きをするからなのだ。僕はこの繰り返しにすごく弱いのだ。

 マラソン大会が嫌だったのも、このコースの繰り返しに耐えられなかったからなのである。

 僕は何度も繰り返されるものがすごく嫌いなようである。日常生活、というのもある種の繰り返しであり、僕の弱点を突くもののようだ。

 毎日起きる事が非常に苦痛だった。毎日ひげを剃るのも嫌と言えば嫌である。そこで僕たちは流れるものに逃避する。

 僕は朝のゴミ出しを苦痛と思ったことはない。なぜなら、それは……繰り返しではないからなのだ。

 朝のゴミ出しは爽快なものであり、一種の流れと言える。それは絶対に繰り返されない。一度出したゴミはもう絶対に僕のもとには帰ってこない。帰ってきたら、それはリサイクルのペットボトルのような形でである。だから僕はリサイクルのペットボトルも嫌いなのだ。

 僕は一度捨てたものにもう戻ってきてほしくない。これはことわざ、「去る者日々に疎し」のさっぱりとした味わいに通ずるものである。

銭湯の面倒くささと逆に行ってみたい銭湯の魅力

 僕は最近風呂に入るのが非常に面倒くさいと感じることが多くなった。

 したがって、ほとんど風呂には入っていない。しかし、別に体臭が濃いとか、そんなタイプではないので、大丈夫だ。

 世間には、銭湯のように、沢山の人が集まって、一緒に体を洗う場所があるようだが、一人で体を洗うことさえ面倒なのに、大勢の人の目に触れるところで体を洗うとなると、さらに骨である。

 体を洗うと言っても、それは人の行いなのであるからして、おそらく、人の目に触れた際には何らかの感興を催させることであろう。それが感興であればそれに越したことはないのだが、もしかすると、それは悪感情を引き起こすことにならないとも言えない。

「むむ!! あいつの体を洗う順番は、全然おれと違う!!!」

 このような場合、喧嘩を売っていると見なされる危険も無きにしもあらずである。注意が必要だ。

 さらに、厄介なのが、人の使っているシャンプーと自分の使っているシャンプーが同じだった場合だろう。薬局などには、髪をツヤツヤに保つための保湿シャンプーなども売られている。

「む!! おれは真面目に保湿しようとおれは思って、このシャンプーを買ったのに、こいつは全然保湿にこだわっていなさそうな感じだ!!!」

 このような場合も保湿にかけるこだわりを侮辱したと思われる場合があり、注意が必要である。つまりは、一言に銭湯と言っても、面倒なことは沢山あるものなのだ。

 そんなわけで僕は銭湯に足を運ぶことはまずない。実際に、上のようなことで絡まれるようなことがあれば……、むしろ行ってみたいような気もするのだが……。

朝の喫茶店にて

 最近外が寒い。朝はコーヒーで温まりたくなるが、金がない。

 最近よく行く喫茶店で、コーヒーなしのホットケーキだけの朝食をよく食べている。

 当然、出される飲み物は水である。あの水が最近憎くてならない。

 店からすれば当然、コーヒーを注文されないお客様は、お水で我慢してくださいまし、というスタンスを取っているのだが、なんとなく、もう少しなんとかならないものだろうか。

 僕はあの水が出される度に、「オイコラ!! こっちは客だぞ!!??」と怒鳴りたくなってしまう。客だから水を出してくれているのだが……。

「お水冷たいでしょう? あったかいコーヒーでもいかが??」というお店側の声が聞こえてきてならない。

 どうすれば、あの水に対抗できるのだろうか? どうにかして、あのお水を美味しくいただくことはできないだろうか??

 寒い朝に、乾布摩擦をするような勢いで、ぐっと飲み干すのはどうだろうか?

 もしかすると、体が引き締まって、より目がすっきり覚めるのかもしれないし……。

 とかなんとか考えているうちに、ホットケーキだけの朝食が運ばれてきて、否が応でももさもさした口の中をすっきりさせるために、水を飲まなくてはならなくなるんだけど……。

人生の「少しずつ」について

 少しづつ、が昔から好きである。

 なんというか、ドバーッというのが苦手というか、まとまって動く何かを見ると、異様に不安感が湧き起こってきた。

 例えば、プレゼント。クリスマスシーズンの異様な盛り上がりは、何故か苦手だった。

 それは恐らく、人々が何かを一気に解決しようとして、行動に駆り立てられる姿が不気味に映ったからかもしれない。

 大きなお金が動くのを見るのも相当に怖かった。

 クリスマスシーズンとか、お正月の初売りみたいなものは、雪山の雪崩を見ているようなもので、「わぁ、溜まってるなあ」と感心しながらも、怖々眺めることになる。

 僕にとっては、あのスピード感は恐怖以外の何物でもないように感じられる。

 

 僕自身に関して言うと、やはり、醤油さしから醤油を出すペースが一番ほっとするようだ。

 醤油さしは懸命にスローペースに徹している。あのスピード感に憧れる。

 

 日々使うものだからこそ、丁寧に扱うし、キズもつきにくい。

 誰もが手に取れる人気者であり、また、日々必要とされる実力者だ。人生は、一気ではなく、少しづつ。これに限るね。

おっさんとトイレ待ちに思ったこととその顛末について

 僕は駅前通りのカラオケボックスに年配の男性と到着し、カラオケを楽しんだのだが、歌い終わった後、唐突にその方がトイレに行きたいと言い出した。

 その方がトイレに行っている間に僕は所在なさから窓を覗き込んでいた。

意外なことに、なかなか良いロケーションなのである。そのカラオケはビルの高層階にあり、ちょっとした夜景気分を味わえる。おそらくは、付き合い始めのカップルで眺めたりするにはちょうどいいだろう。

 おっさんのトイレ待ちに眺めるにはもったいない夜景である。そう思った瞬間、おっさんが僕の心を読んだかのごとく、トイレから戻ってくるではないか。

「ごめんごめん、じゃあ、行こっか!!」

 なんとなく、カップルのことについて思いを馳せていた僕にとっては、イラっとさせられる態度である。全く悪びれていない、というか、「おれのトイレ待ちに素敵な夜景でも眺めてなよ、YOU!!」ってなもんで、陽気すぎる。おれはこのおっさんの能天気ぶりを心底憎んだ。

 で、帰り際、おっさんを困らせてやろうと、「○○さん、ご飯でもいかがですか?」と誘いをかけてみる。ここはご飯でもおごらせないと、やってられない。おっさんのトイレ待ちに、素敵な夜景で余計なことを考えさせられた罰だ。

 そう思った途端、このおっさんは、「ごめん、今金なくってさあ……」といきなりしおらしい態度に豹変する。こういうところがまた、このおっさんの腹立たしいところだ。

 この―、っと怒りを募らせていると、「じゃ!!」と言って退散していくおっさん。おい!! 今日はありがとう、とかそういう挨拶はないのか!!と思うも、おっさんはあっという間に駅の群衆の中に消えていったのであった……。