川の流れと戻ってきて欲しくないものについて

 川というのは人の心をなんとなくゆったりさせてくれるようだ。あんなにせわしなく流れていく水の流れが人の心を落ち着けてくれるというのは何とも不思議な現象である。

 川の流れに限らず、何かが流れていく様子というのはものによらず、人の心を落ち着ける作用があるようである。球がひたすら流れてくるパチンコ台や、人の流れを観察するシミュレーションゲームなどもその一端と言えそうである。

 反対に見ていてイライラするものというのもある。試験中に眺める時計の針なんかが僕の場合にはそうである。

 なぜ時計の針にイライラさせられるのだろうか?

 まず第一に、川の流れとの対照的な違いがある。それは時計の針が、循環的な動きをするからなのだ。僕はこの繰り返しにすごく弱いのだ。

 マラソン大会が嫌だったのも、このコースの繰り返しに耐えられなかったからなのである。

 僕は何度も繰り返されるものがすごく嫌いなようである。日常生活、というのもある種の繰り返しであり、僕の弱点を突くもののようだ。

 毎日起きる事が非常に苦痛だった。毎日ひげを剃るのも嫌と言えば嫌である。そこで僕たちは流れるものに逃避する。

 僕は朝のゴミ出しを苦痛と思ったことはない。なぜなら、それは……繰り返しではないからなのだ。

 朝のゴミ出しは爽快なものであり、一種の流れと言える。それは絶対に繰り返されない。一度出したゴミはもう絶対に僕のもとには帰ってこない。帰ってきたら、それはリサイクルのペットボトルのような形でである。だから僕はリサイクルのペットボトルも嫌いなのだ。

 僕は一度捨てたものにもう戻ってきてほしくない。これはことわざ、「去る者日々に疎し」のさっぱりとした味わいに通ずるものである。